紙がみのプライド

色×コラム

 ドバイなどUAE各所でもらったパンフレットたち。

ドバイなどUAE各所でもらったパンフレットたち。

 

先日、国の文化交流と作品制作を目的に1ヶ月間ドバイに滞在していた。公共図書館や美術館、田舎の文化施設を回ったのだが、驚いたのはそこでもらうパンフレットの紙の分厚さ。ページをめくろうと指を滑らせても、感触が硬い。どう考えても、1ページが通常の紙2、3枚分の厚さだ。余白たっぷりの大判パンフレットである。立派なのは結構なのだが、重い上にかさばるし、正直言って不便だ。と思いきや、観光客の多い有名なミュージアムに行くと、A4コピー用紙を折りたたんだだけのパンフレットを渡され、愕然とした。こんなに知られた施設なのに、なぜペラペラのコピー用紙なのか。地方に行くほど、無名な場所ほど、「より豪華に見せよう」という意識が強くなるらしい。これは紙の威厳。紙にもプライドが表れるのだ。
  

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何度目になるだろう。昨年10月に亡くなった赤瀬川原平さんの著書『新解さんの謎』を読み返している。辞書をめぐる抱腹絶倒のエッセイ集だ。後半には「紙がみの消息」という、紙を様々な角度から考察するエッセイが併録されている。たとえば、こんな一節。

 
  

〈余白の白とは、たぶん紙の白だろう。紙に文字なり絵なりを書き連ねて、余ったところを余白というわけだろう〉
〈白という字など余白だらけだ。憂鬱の鬱の字など余白は少ないが、一という字など、上下がほとんど余白だ〉
(「余白をどうするか……」より)

  

「紙」を考察するのだから、余白の話が出てきても不思議ではない。ところが原平さん(と新解さんをもじってお呼びしたい)は「白」という一字の中にも余白を発見してしまう。言われてみれば、「余白」という字面そのものがスカスカに見えてきて、何だか神々しい。
余白というのは難しい。全くの無地の紙のことを「余白」とは呼ばないからだ。そこに小さく文字や絵を書き入れれば、広大な余白となる。一筋の線、でもよいかもしれない。頭が禿げかかった人は、大変な「余白」を掲げていることになる。生え際が後退気味の人は、よく額がピカピカしているのを見る。あれは余白の輝きだったのだ。そのうち髪自体が薄くなってくると、頭皮が透けて余白が増えていく。余白を埋めるために、かつらで髪の毛を書き足したりする。或いは、かろうじて残る一筋の毛を、櫛で大事にといている人もいる。あれは、髪が大事なのではなく、余白を誇っているのである。
 

〈紙は白い。紙を神族に入れてしまう傾向は、白にも重なっているらしい。たとえば白い寝巻きのような死装束。これは布だけど、お心付けの現金を白い懐紙で包むのに似ている。その白い布一枚で、中にある生臭いどろどろした下品な肉体が、といってはいい過ぎだろうが、とにかくそれが紙一重と同じ効果で神族に舞い上がる〉
(「日本列島、物族と紙族の争い」より)

 

日本では、通貨の紙に「お」を付けて、まるで「神族」のように「お札」と呼ぶ(「カネ」と直接的に呼ぶのは下品だが、何かと「お」を付けるのもいやらしいものだ)。真っ白な死装束をまとわせて旅立たせれば、人間もカネも神族に舞い上がってしまう。白って不思議、紙って不思議。
 
このコラムはウェブ上での連載なので、仮に上下の余白が多くても、気にすることはない。多少見づらくなるとか、スクロールが面倒になる程度だろう。すると、余白は半ば意味を失ってしまう。余白にだって、ちゃんと役割がある。名詩集の余白は人を魅了するのだ。「ウェブの余白」を埋めるのは画像広告だ。自分が過去に欲しいと思った商品が表示され、ぎょっとすることがある。ワンクリックで誰かが儲かる仕組みになっている。余白にまでカネを取る。けれど、高価な詩集にしても余白を売っているようなものだ。
白い服が特別な意味を持つように、白い紙も素晴らしい。しかも紙は、表も裏も使えるリバーシブル仕様である。机の引き出しに、裏紙利用のコピー用紙がぎっしり溜まっている。空間にも余白が欲しいところだ。うつくしい余白を生産し、紙がみのプライドを保つべく、書き手たちは今日もペンを執る。