夜中の薔薇

色×コラム

 

 年に数回程度だが、人から花をもらうことがある。顔のそばに花を抱いて、夜中の電車に揺れていると、ツンとむせるような花の匂いに溺れてしまう。誰かを迎えに行く旅をしているようだと思う。
包装紙で飾られた花束よりも、「いいのよ、どうぞお好きに持ち帰って」という勢いに押されて、新聞紙で包んだ急ごしらえの花束の方が、なぜだか嬉しい。それが私にはお似合いだからなのか。家に持ち帰っても、まともな花瓶一つないのだから、一晩眺めたら捨ててしまうのがいいのだろう。だけど、そんな思い切りのいいことはできずに、普段は使わない白いコップを取り出す。そうして濁った水を取り替えもせずに、枯らしてしまう。一抹の罪悪感。

 
 向田邦子のエッセイ「夜中の薔薇」の筆致は軽やかだ。シューベルト作曲「野ばら」の歌い出し「童は見たり、野中の薔薇」を「夜中の薔薇」と歌っていた、という人のエピソードで始まり、子どものころ夜中に父の爪を踏んだこと、見知らぬ女からの自殺をほのめかす電話、女学校の先生の家に泊まった夜の出来事などを駆け足で巡る。すべては〈夜〉の時間、そこで起きた不意打ちの出来事として自然に結ばれていく。その引き出しの多さに驚かされる。
 


 薔薇に限らず、夜中に花びらが散ると音がする。
音というより気配というほうが正しいかも知れない。
花びら一枚の寿命が尽きて落ちる、ちょうどそのときにあたっていたのか、ひとりでに散ることもある。ドアをあけたり身動きをしたりするその動きで、かすかに部屋の空気が動くのが命を早めたのか、二枚三昧続いて落ちることもある。
――向田邦子「夜中の薔薇」(『夜中の薔薇』講談社文庫)より

 

 家に花を置くと、そこに誰かいるのでは、と疑うほどの強い気配を感じることがある。花の散る乾いた音、コップの中で花が傾く瞬間、よそ行きの香水のような匂い――。私はその気配に振り向き、美しい客人にこうべを垂れる。もっと上等な家に引き取られれば良かったのに。色気のない本棚の横で、花はすっかり色あせて見える。「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」。すでに切られてしまった花は、苦しむ余生もなく枯れていくだけだ。
 

 「夜中の薔薇」の最終場面は、花屋が売れ残りの薔薇を家の前に届けてくれたエピソード。その二百本ほどの薔薇は、すでに枯れる寸前だった。〈生き返られないと思われるものは、諦めて捨てよう〉とまとめかけたとき、語り手は何年か前、タクシー運転手に聞かされた話を思い出す。ノモンハン事件でひどい怪我を負った運転手は、回復の見込みのない印である〈赤札〉を付けられるはずが、軍医が間違えて〈生きる見込みのある〉青札を付けたおかげで、九死に一生を得たという。
 

 語り手は、枯れかけた花々に〈赤札〉を付けられなかった。〈売れ残りのわが姿を見る思いで〉、薔薇をいくつかの束に分け、水の張った浴槽の中に一晩立てかけておく。〈花の水風呂と称してかなり傷んだ花も、うまくゆくと生きかえることがある〉から。
浴槽いっぱいの薔薇を見下ろし、彼女は「くれない匂う夜中の薔薇」と新たに花を名づけなおす。〈売れ残り〉の己が身でも構わない。かすかな可能性にかけて、花の命をもう少しだけ感じていたいのだ。